一般に珪藻(Diatom)とは、単細胞の微小藻類で、細胞の周りに珪酸質(シリカ)でできた被殻(Frustule)という細胞壁を持ちます。その種類は多く、世界各地の陸水域、海域に広く分布しています。生活のスタイルも多様で、浮遊生活を行ったり、様々なものに付着して生活するグループもいます。珪藻の付着は、岩や堆積物などの上だけでなく、クジラの体表でもみられています。これらとは別に、海産浮遊性のカイアシ類の体表上で、生活を行う特殊なグループ(現時点で5属6種)が存在します。
カイアシ類着生珪藻のほとんどは、カイアシ類の体表上でしか発見されていません。すでに、その存在が知られてから100年以上もの年月が経っていますが、彼らの生活史は不明な点が多く、このカイアシ類と珪藻の関係が共生であるか寄生であるかすらわかっていません。
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珪藻の着生は、Russell
& Norris(1971)やGibson(1979a)などの報告にあるように、カイアシ類の雌雄個体が交尾時に接触する部位に集中しています。そのため、宿主個体が交尾している間に珪藻は、他個体へ移住すると考えられています。またカイアシ類の種類によっては交尾行動の様式が異なるため、各珪藻の着生部位はカイアシ類の種類によって変化します。つまり、珪藻がカイアシ類のどの部位に着生するかは、宿主であるカイアシ類の種類とその交尾様式に左右されるということです。逆に言えばカイアシ類は、珪藻が多くみられる部位を接触させて交尾しているとも考えられます。
また各着生珪藻には、それぞれ宿主特異性があり、宿主範囲も種によって異なります。 Pseudohimantidium は、主にポエキロストム目(Poecilostomatoida)のコリケウス科( Corycaeidae)の多くの種を宿主として選択します。同様に Protoraphis は、カラヌス目( Calanoida)ポンテラ科( Pontellidae)などを中心に、 Falcula はカラヌス目アカルチア科( Acartiidae)やキクロプス目( Cyclopoida)オイトナ科( Oithonidae)を宿主とする傾向があります。 Sceptronema と Licmophora unidenticulata は、今のところそれぞれ一種のカイアシ類体表上でしかみつかっていません。基本的に宿主となるカイアシ類は、交尾時間の長い種類が選択されています。カイアシ類の中には、交尾が一瞬で完了する種類も存在します。彼らに着生していたのでは他個体に移住しにくいのでしょう。
Pseudohimantidium pacificumは、カイアシ類着生珪藻の中で、もっとも良く知られている種です。この珪藻は、1928年頃に南米チリの沿岸で採集され、1941年に Hustedt & Krasskeによって新属新種として報告された種です。その分布は広く、太平洋、インド洋、地中海、大西洋にまで渡ります。日本においても、伊豆半島の下田や三重県沖の熊野灘、石川県能登半島沿岸、島根県沿岸、瀬戸内海西部から南西諸島周辺海域にまで分布しています。 細胞は三日月状で、一方の細胞端から付着柄( Stalk)を出してカイアシ類の体表に付着しています(図1)。通常1本の付着柄に1つの細胞がついていますが、細胞が分裂することで樹枝状のコロニーを形成することもできます(図2)。色素体は非常に多く、25前後あり、細胞中に散在しています。
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Pseudohimantidium pacificumは、宿主であるカイアシ類の雌雄個体が交尾時に接触する部位に、集中して着生することがよく知られています( Russell & Norris 1971など)。図3の Corycaeus affinisの場合、雄個体では、雌個体を抱きかかえる第二触角に珪藻の着生が集中し(図4)、雌個体では雄個体の第二触角が接する胸節に集中します(図5)。
図3-5. Pseudohimantidium pacificumの着生を受けた Corycaeus affinisの各部位
図3.雄の全体像(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図4.雄の第二触角(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図5.雌の胸節(走査型電子顕微鏡写真,原図)
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殻長(殻面長軸の長さ)は、一般に約30-80μmです。稀に20μm程の小さなものや、100μmをゆうに越える大きなものまで観察されます。殻幅(殻面短軸の長さ)は、約7-15μm。殻面中央に中肋(肋:他の部分より厚みのある部分)が走っており、その両端には唇状突起溝(Labiate groove)と呼ばれる特殊な構造が位置します。図6.殻外面(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図7.殻端外面にみられる裂溝[矢先](走査型電子顕微鏡写真,原図)
図8.殻端内面にみられる複数の唇状突起の列[矢先](走査型電子顕微鏡写真,原図)
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Pseudohimantidium pacificumの唇状突起溝は、殻端の外部裂溝(図7)と、その内側に位置する複数の唇状突起( Labiate process)から成る列(図8)が結合した構造です。この様な構造は、この珪藻でしか知られていません。 また、唇状突起溝よりも先の頂端部に、小さなスリット構造が存在しています(図9)。このスリット構造が、付着柄の放出孔です(図10)。
図9.殻頂端にみられるスリット構造[矢先](走査型電子顕微鏡写真,原図)
図10.殻頂端のスリット構造から出された付着柄(走査型電子顕微鏡写真,原図)
Protoraphis atlanticaは、1979年にGibsonによって新種として報告されました。その分布は、フロリダ、ハワイそして日本の和歌山県田辺湾、瀬戸内海から南西諸島周辺海域に渡ります。 細胞の外形は、側面部が横に長い楔状で、殻面部が棍棒状になっています。色素体は不明です。宿主に着生するため、細胞の一端から付着柄を出します。コロニーは、通常一本の付着柄に2-3の細胞が連結してジグザグ状になっています。
図1.Protoraphis atlanticaの着生を受けたPontella securiferの肛門周辺部(走査型電子顕微鏡写真,原図)
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一般に、殻長は約20-50μmで、殻幅は約5-10μmです。
殻の中央には中肋が走っており、その両端には唇状突起溝が位置しています。
図2.殻外面(走査型電子顕微鏡写真,原図) 図3.殻内面(走査型電子顕微鏡写真,原図)
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Protoraphis atlanticaの唇状突起はProtoraphis hustedtianaの唇状突起に似た構造をしています(図4)。この珪藻でも付着柄の放出は、殻頂端部にあるスリット構造を通して行われます(図5)。
図4.殻端内面にみられる特殊な唇状突起[矢先](走査型電子顕微鏡写真,原図)
図5.殻頂端から出された付着柄(走査型電子顕微鏡写真,原図)
Protoraphis hustedtianaは、1970年にSimonsenによって新属新種として報告されました。その際、プロトラフィス科(Protoraphidaceae)が新設されました。その分布は広く、アラビア湾、ペルシャ湾、オーストラリア、そしてフィリピン近海まで渡ります。日本においても、和歌山県田辺湾、島根県沿岸、瀬戸内海西部から南西諸島周辺海域にまで分布しています。 この珪藻は、カイアシ類だけでなく、小型の巻貝の殻上からも発見されている種です(Takano 1985)。細胞は普通、長方形か正方形に見えますが、これは側面部分の形状で、殻面自体は非常に細長い楕円形です。色素体は通常4つ、分裂時には図1のように8つ観察されます。宿主に着生するため、細胞の一端から付着柄を出します。コロニーはジグザグ状で、通常一本の付着柄に2-3の細胞が連結しています。
図1.Pseudohimantidium pacificumの生細胞(光学顕微鏡写真,原図)
図2.Protoraphis hustedtianaの着生を受けたCandacia ethiopicaの胸節末端周辺部(走査型電子顕微鏡写真,原図)
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殻長は、変異の幅が大きく、約30μmのものから100μm以上になるものまで観察されます。
ごく稀に20μm程の小型のものもみられます。殻幅は5μm前後です。殻の中央には中肋が走っており、その両端には、唇状突起溝が位置しています。
図3.被殻全景(走査型電子顕微鏡写真,原図) 図4.殻内面(走査型電子顕微鏡写真,原図)
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Protoraphis hustedtianaの唇状突起はPseudohimantidiumと違い、かなり変形した構造となっています(図5)。この珪藻でも付着柄の放出は、殻頂端部にあるスリット構造を通して行われます(図6)。
図5.殻端内面にみられる特殊な唇状突起[矢先](走査型電子顕微鏡写真,原図)
図6.殻頂端部から出された付着柄(走査型電子顕微鏡写真,原図)
Falcula hyalinaは、1983年に発見され、高野秀昭氏によって新種報告されました。分布は、オーストラリアのスオン川河口域、フロリダ沿岸、ハワイ、日本では、伊豆半島の下田に近い田ノ浦湾、三河湾、浜名湖、沖縄県粟国島でみられています。 細胞は三日月状で、バナナの房のようなコロニーを形成して着生します(図1-3)。しかし、付着柄は持っていません。色素体は不明です。
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殻長は、一般に約20-50μmです。殻幅は5μm前後です。殻面中央より凹側に中肋(もしくは軸域)が走ります。殻端には、一般的な唇状突起と極孔域と呼ばれる構造を有しています。ただし、唇状突起は、1つの殻の片方の殻端にだけみられ、上下両殻ではそれぞれ異なった各殻端に1つずつ存在しています。 Falcula hyalinaは付着柄を持ちませんが、一方の殻端から付着物質を分泌して宿主に着生します(図4)。この物質は、殻頂端の極孔域(図5)から出されています。図4.殻端から出された付着物質(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図5.極孔域の拡大図(走査型電子顕微鏡写真,原図)
Sceptronema orientaleは、1983年に発見され、高野秀昭氏によって新種報告されました。分布は日本の伊豆下田と島根県沿岸でのみ観察されています。 細胞は擬人形か長方形にみえます。細胞の一端から付着柄を出して着生します。色素体の正確な数は、まだ測定しきれていませんが、多いようです。細胞の頭極と脚極が付着物質によって連結することで、糸状のコロニーを形成します。通常1本の付着柄に2-3の細胞が連なっています。 この珪藻の宿主カイアシ類は、Euterpina actifrons 1種のみしか知られていません。また、このカイアシ類はPseudohimantidiumの宿主にもなるのですが、Sceptronemaの着生がみられる海域では、このカイアシ類へのPseudohimantidiumの着生はみられませんでした
図1-2.Sceptronema orientaleの着生を受けたEuterpina actifrons
図1.光学顕微鏡写真(原図)
図 2.走査型電子顕微鏡写真(原図)
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殻の外形は擬人形。殻長は約30-40μm(原記載では50μmまで観察されています)、殻幅は約8-9μmです。殻面中央に、中肋が走っています。唇状突起は持っていません。殻の頂端にはスリット構造を持ち、ここから付着柄や、細胞を連結させる物質を放出します(図4,5)。
図3.被殻全景(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図4.殻頂端から出された付着柄
(走査型電子顕微鏡写真,原図)
図5.殻頂端同士での連結
(走査型電子顕微鏡写真,原図)